悟りとは受け入れて笑うこと

仏様は料理も上手らしい。
迷妄を払って真理に達することを悟りと言い、何千年もの間、幾多の僧や修行者がそれを追い求めてきました。
時には禅を組んで何時間も瞑想し、時には何日断食して、生死を超えた真理に到達せんと試みてきました。
かくいうエセ賢者も修行して、無我の境地を目指したものです。
飽きっぽい性質なので、三日で断念しましたが。
そもそも悟りは何であるのか?
本当にそんなものがあるのなら、どうして人間はいつまで経っても救われないのか?
そう思い続けて何十年も経って、ようやく悟りの正体に気付きました。
悟りとは、別に特別なものでも、万能なものでもなかったのです。
悟りとは、全てを受け入れることです。
ただそれだけで、他の何もありません。
己がここにいることを認めること。
他人が傍にいることを認めること。
自分にとって不利な出来事を認めること。
善も悪も、
穢れも痛みも、
憎しみも悲しみも、
全てを認めて執着しないこと。
それがかの先人が至った真理の地平なのです。

全ての苦しみは、反発から生まれます。
一度受け入れてしまえば、それは自分の一部となり、私達を苦しめることはありません。
大嫌いなあの人も、家族になってしまえば、とても大切に思える。
コンプレックスの塊だった体型も、その魅力に気付いてやれば、とても愛おしく感じる。
損失も借金も、それがあるのが当たり前だと思えば、なんら重荷にはならない。
私達は刺激の強いものに触れるとき反射的にそれを拒絶し、近づき続けると不快感を感じます。
昆虫とか、ミミズとか、脂ぎった男性とか。
たとえば、このウデムシにそっと触れてみてください。

指を近づけると大きなダメージを負ったような気分になるけれど、実際はウデムシが人を傷付けているのではありません。
私達の拒絶する心が、そう錯覚させているだけなのです。
借金があると気がめいる。
明日の仕事を考えると、気分が重くなる。
上司に叱られて、欝になった。
私達の悩みの大半はただの思い込みであって、現実に私達の体を傷付けるものではありません。
何度も昆虫に触れていればそのうち慣れてしまうように、受け入れてしまえば、何の効力もなくなってしまうのです。
かつて子供を生き返らせて欲しいと頼んだ女に、仏陀は言いました。
「一度も死人を出していない家のケシの実を食べさせれば、子供は生き返る」
と。
そう。
失われたものを取り戻すことなど、誰にもできはしない。
ただ、受け入れて前に進むしかないのです。
大人と子供に、いや大人っぽい人と子供っぽい人に違いがあれば、それは「受け入れられる限度の差」でしょう。
自分にとって不利な現象をどれだけ許容して、前向きに捉えるとことができるか。
それが人間の器というものなのだと思います。
悟るために、わざわざ断食する必要はありません。
滝に打たれる必要もありません。

ただ全ての出来事を、ありのまま認めてやればいい。
色眼鏡で見るのを止めて、与えられたものを全て受け入れてやればいい。
良い事も悪いことも、損失も憎しみも嫉妬も、受け入れてしまえばみな同じ。
たいしたことじゃないと、笑い飛ばしてやればいいのです。

百年かけても悟れない人もいる。
生まれたときから悟っている獣もいる。
その違いはきっと、自分以外のものを許したかどうか。