親は親ではない 子は子ではない

人類皆兄弟。
今回はブログの内容とは全く関係ないけれど、100万回ぐらい聞いてほしい大事な話です。
もうずいぶん昔の話。
エセ賢者と両親の関係が芳しくなかった頃、ソレに尋ねたことがあります。
「親とはいったい何なのか?」
と。
ソレはただ一言、簡潔に答えました。
「おまえさんだよ」
と。
そう。
親は親ではなく、自分自身である。
それが真理だったのです。

人間の多くは、親と自分は別の人間だと信じています。
同じように子供は自分とは別の存在で、ただ血がつながっているだけだと考えています。
しかし、天から見ればそれは同一の存在。
科学的に考えても、全く同じ結論が出ます。
生物の定義は、大きく分けて5つあります。
1.生体と外界を分ける細胞膜が存在すること
2.エネルギー代謝を行うこと
3.外界が変化しても、恒常性により自分を一定に保つこと
4.刺激に対して反応すること
5.自己を複製する能力を持つこと
生物学的見地から言えば、子供は自分の複製なんですよ。
分裂で増殖する単細胞生物はもちろん、哺乳類のような高等動物でも本質は同じです。
タンポポの草と綿毛は分離しているけれど、同じ植物には違いない。
プラナリアやヒドラを分割すればいくつもの個体に分かれて再生するけれど、元々同じ動物だったことには変わりない。
人間という複雑な生き物だって、突き詰めてみれば同じこと。
貴方の親は、いつかの貴方であった。
貴方の子供は、次の貴方になるだろう。
祖父も曽祖父も、孫も曾孫も、全部同じ。
無限に連なる自分自身の、ほんの一時の形に過ぎない。
そう、私達は何千年も何万年も、ずっと生き続けてきたのです。
たとえ覚えていなかったとしても、数億年分の記憶がDNAには刻まれています。

自分が複数存在することに違和感を覚える人もいるかもしれませんが、そんなのは全く不思議なことではありません。
世の中に双子はありふれているし、一卵性の三つ子や六つ子なんてものいます。
クローン羊のドリーのように、人為的に同じ個体を作ることもできます。
同じDNAを持っているからといって、同じ形をしているとは限りません。
一つの植物であっても、部位によって姿は様々です。
枝と葉は違う。
花と実は違う。
根と幹も違う。
けれど、どれも一つの大きな生命を構成していることには変わりません。
全ては大樹の一部であり、それぞれの役割を果たしているだけのことです。
多くの人は、「自己愛と博愛は違うもの」と言います。
しかし、それは対象となる範囲が違うだけで、愛すること自体に差異はないのではありませんか?
自分という小さな生命体だけに愛情を注ぐなら、それは自己愛になります。
かつての自分や、次の自分、同時期に複製された自分も含めるなら、それは家族愛になります。
遠い昔に分かれてしまったけれど、同じ祖を持つ分体も愛することができるなら、それは博愛と呼ばれるでしょう。
稀に「自分の子供の愛し方がわからない」という母親がいますが、それはとてもナンセンスなこと。
貴方の子供は紛れもなく時代の貴方なのだから、自分と同じように愛し、扱えばいいのです。

かつてイエス・キリストは、「汝の敵を愛せ」と説いたとされています。
それは「悪を放置しろ」とか、「嫌いなものを好きになれ」という意味ではありません。
神の視点においては自分も他人も一つの存在なのだから、自分と同様に存在を認めるべきということなのだと思います。
人類全体が一つの生命体であるのなら、人間と人間が争うのは、あたかも右手と左手が喧嘩するようなもの。
親兄弟や親戚の間の諍いであるのなら、人差し指と中指が喧嘩するものかもしれません。
そんな滑稽なことを、私達は何万年も続けてきました。
事実、私はこの話を何回も聞いては、その度に忘れています。
忘れて、忘れて、忘れて、10年ぐらいしたらまた思い出す。
いつか私であったものを含めれば、何千、何万回繰り返したかわかりません。
時が移り変わり、自分が次の自分に代わる度に、私は忘却して争いを繰り返してきました。
そして何度も教えられては、その度に己を恥じるのです。
おそらく、私達は何度学んでもそれを失い、闘争と略奪を繰り返すでしょう。
個体を生かすために、他の自分を犠牲にすることもあるでしょう。
生物が進化するためには、それもまた必要なものなのだから。
しかし、どうか許されるのなら、次の私がまた、それを思い出してくれるように。
これを見ている私が、何度でも答えに辿り着けるように。
心から、そう願っています。

⇒他人の不幸は猫の味
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