GDPを目標にしてはいけない
2019-11-26|経済を考える

随分貧しくなった・・・( ノД`)
本当の経済学
1.経済の目的は資源の最適分配
2.経済成長は生産能力の拡大
3.お金は分配のツール
4.金額は重要ではない
国内総生産(GDP)は経済統計の主役で、指標にうるさいトレーダーはもちろん世界中の首脳ですらその上下に心を悩まされています。
前年比でGDPが上がれば誰もが楽観的になり、下がれば不況を恐れて政策の変更を迫られます。
しかし、この数字にそんな大層な意味があるのでしょうか?
悲惨な労働環境に照らし合わせて考えると、GDPは国民生活の豊かさを表してはいないのがわかります。
そんなどうでもいい指標はいっそ捨てて、現実に合わせた目標を設定し直すべきとすら思います。
なぜGDPが当てにならないかというと、それは本当の意味での経済力を意味しないからです。
経済力とは何か?
それは「国民の欲望を叶える能力」のことです。
一番代表的なのは食料の生産能力。
紙幣ができるずっと前から人間は農地を拡大し、栽培方法を工夫して穀物の収穫量を上げてきました。
例えば、1年で1千万トンのお米が生産できるとしたら、これが現在の生産力。
・人口が増やす
・技術を進歩させる
・土地を開墾する
といった手段で収穫量を2千万トンに増加させました。
このようにお米の収穫量を増やしたり、より美味しくて栄養価の高い米を作ったりすることが経済成長に繋がるわけです。

もちろん人々の欲求は食欲だけではありません。
衣類や住居、教育や娯楽など、必要なものは多岐にわたります。
様々な願望に対応する能力こそが、本当の意味での経済力と言えます。
GDPはあらゆる製品サービスの消費金額の総和なので、一見GDPの増加は経済の成長であるように思えます。
しかし、それは先ほど述べたお米のように、現実の生産力の拡大を示しているのでしょうか?
概ねその傾向はありますが、必ずしも正しいとは言えません。
GDPは取引に使われた合計金額でしかないからです。
農家が米の収穫量を10kgから20kgに増やしたとしたら、その分だけ社会は豊かになっています。
しかし、増えた分だけ値下げしたり、物々交換したら取引金額は増えません。
伊達直人を名乗って孤児院に寄付しても増えません。
スーパーで柿を買って食べたら、GDPは増えます。
一方で庭の木に実った柿を食べても、GDPは増えません。
満足度は変わらないのに、指標の数字は変わってしまう。
貨幣のない時代は当然GDP=0でしたが、人々が欲しい物を全く手に入れられなかったということもありません。
逆に政府が「穴を掘って埋める公共事業」に100兆円つぎこめば、GDPは100兆円増えます。
やはりGDPはただの数字であり、現実の物量や満足度を意味しない。
社会の豊かさを評価する材料としては、不完全だと思います。
また、
「生産量が上がっても休みが減ったら意味がないのでは?」
という疑問もあります。
安倍政権はGDP600兆円を目標にしていますが、それが達成されて時に私達の仕事時間はどれだけ増えているのでしょうか?
サラリーマン戦士が毎日残業して、土日祝日も休日出勤すれば仕事はドンドン進みます。
戦争や自然災害が起これば国民全員が死ぬ気で働くので、GDPはうなぎ登り。
ただ、そんな社会はとても豊かとは言えない。
従業員を過労死させて利益を上げた企業に入社したいでしょうか?
お金やモノは溢れているけど、休みがない社畜生活。(GDPは高い)
お金やモノはないけど、好きなだけ遊べるニート生活。(GDPは低い)
果たしてどっちがより豊かな生き方と言えるのでしょうか?
(もちろんどっちもあるに越したことはないが)

GDPは金額であって、実際に人々の願望が正しく叶えられたことを保証しません。
GDPの増加は取引が活発になったことを意味しますが、それによって国民の余暇や精神が削られた可能性もあります。
全体の消費が増えても格差が広がれば、食うものに困るホームレスは増えます。
会社の業績が上がっても、過労死に至るサラリーマンはいます。
国家全体の富が増えたからといって、国民が幸せになったかはわかりません。
世界で一番幸せな国と呼ばれるブータンは、GDPに代わる指標として国民総幸福量(GNH)をつくりました。
経済的な豊かさではなく、精神的な豊かさを重んじるように政府が運営されています。
所詮お金は人間が作ったツールでしかないので、究極的な目的にはなりえません。
資本主義社会に生きる私達も虚構の数字を追い求めるのは止めて、現実に根付いた目標を設定していくべきなのでしょう。

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